キーナート報告書

ずいぶんと前のことになるが、セミナーの席である先生から、あの楽天のキーナート氏が東北大学の特任教授になったこと、そして、この理学研究科もあちこち見て回ったという話しを聞いた。そのときは、「大学もなんだか無駄な宣伝をやっているな」と思ったものだ。「こういうことに使うお金があったら、せめて、川内と青葉山の間の車道脇(歩道)の除雪や草刈りをやって欲しいものだ・・・」、と。

その後、そのことは全く忘れていたところが、最近になって大学のホームページに彼の報告書が掲載されていることを知った。冒頭の理事からのメッセージには、この文書を今後の大学のありかたの議論の参考にして欲しいと書いてあるが、おそらくその内容の殆どは、欧米の大学を訪問したり留学した経験のある方なら、誰でも「そのように」思うことばかりではないか。東北大学を世界の一流大学と比較したなら、足りないものが沢山あって、そのどこに重点を置くかは色々と考えの違いはあるたとしても、我々の上に立つ大学の執行部や欧米(米国?)指向の強い役人なら、(おそらくは)すでに承知済みであったはずだ。

東北大学の「研究第一主義」の中身は、「研究だけ」である、と、キーナート氏は冒頭で指摘している。でも、きっとそれはこの大学のやむを得ない戦略だったのではないだろうか。氏の言うような方策を打つためには、それ相当の費用と、「使える」人材が必要となる。(少なくともこれまでは)それはとても難しかったから、ひとまず「研究」だけに精力をフォーカスして、世界と渡り合おうとしたのだろう。加えて、「研究良ければ全てよし」という、一見尤もらしいけれどもあまり根拠のない、楽観的な見通しがあったのかもしれない。

経済第一主義で日本は随分と豊かになったのかもしれないけれども、反面で切り捨てられてきたものも随分とあるはずだ。けれども、国があまりに貧しければ基本的な社会資本の整備や福祉政策さえままならないので、まずは経済が大切、ということで、官民一体となって努力してきた。この大学にとっての「研究第一」とは、そうした国の「経済優先」みたいなものだったのかもしれない。

数年前に恩師が定年を迎えた時、「遺言状」のような形で(その先生はご健在ですが)大学の邦楽部の部長を仰せつかった。部長と言っても、特に何かを手伝ったり指導したりすることはなくて、年に2回の発表会に出かけて、懐具合がよろしければご祝儀も差し上げて、ごく希にくる事務的な書類に目を通す、それくらいの、いたって気楽な仕事だ。学生の演奏の水準は、さすがにプロ並みとはいかないけれども、それでも演奏会に行くのを楽しみにしている。「研究第一」の大学でも、毎年数名ずつの新入部員を得て、学業のかたわらで、練習、企画、招待状の発送、その他の全てをこなしているのは、ある意味で感動ものだ。しかも、邦楽という比較的マイナーな分野で。

こうした大学の文化活動に対して、大学からはそれなりの補助があり、楽器の購入などは大学からの費用で賄っている。きちんとした練習場やホールが整備されないことにもちろん不満はあるけれども、こうした活動が制度的に支えられて来たのは、学生の文化活動への一定の理解と、先人達の努力があったからには違いなく、「研究第一主義大学」の割には、よくやって来たという見方もあるだろう。

数年前、アメリカのインディアナ大学に半年ほど滞在したことがある。名前からも想像できるように随分と田舎の大学で、その規模も東北大学よりはずっと小さい。けれども、当然のように、立派なスタジアムやスポーツジムがあった。そこには良く名の知れた音楽関係の学部があって、日本から留学している学生もちょくちょく見かけた。毎日のように、演劇、ジャズ、室内楽からオーケストラ、オペラ、ミュージカルまで、諸々のイベントが催されていて、WEBの「イベントカレンダー」をチェックしては出かけたものだ*1 (英語が下手なこともあって、ほとんど音楽ばかりだったけれど)。そうしたコンサートの入り具合はまちまちで、特段「音楽の街」といった風でもなかったけれども、お年寄りや大学関係者以外の来客も多く、地域の文化的拠点という印象は強かった。

*1 以前に理学部カレンダーなるものを制作してみたのは、研究に限らず、大学内の様々なイベント情報を掲載できれば良いと思ったからだ。。けれども、残念ながら、これに掲載できる文化行事はほとんど無かった。

東北大学はと言うと、地域文化に果たしている役割は、確かに欧米の大学ほどではないだろう。けれども、地域が求めているものが欧米と同じかどうかは、別の話だ。また、大学の資源を使って文化・啓蒙活動を展開しようにも、そもそも、いまどき大学人のほうが市民よりも文化的成熟度が高いのかどうか、そこのところもよく判らない(確かに私の周りにはタダモノではない人たちはいらっしゃいますが・・)。

縁あって、東北大学が毎月開催しているサイエンスカフェを、その発足時からお手伝いさせていただいている。毎回なかなか盛況で、大学のこうした取り組みとしてはかなり成功しているほうだと思う。そのコンセプトは分かりやすく、特に異議を唱えるつもりはないのだけれど、正直申し上げて、一抹の空しさのようなものも感じてしまう。来場されるのは小学生からお年寄りまで様々で、皆とても熱心に話しを聞いておられる。質問もそれなりにあるし、テーブルでの議論でも会話がとぎれることはない。加えて、スタッフとして額に汗して働いてくれる大学院生は、市民との交流を通じて色々なものを得ている違いない。けれども、ちょっと違うな、という思いが払拭できないのだ。

おそらく、その原因のひとつは、(スタッフも含めて)そうした熱心な会場の様子と、普段の大学の教室との温度差をつい感じてしまうことにあると思う。外向きは派手でも、内向きは「お寒い」状況というのはきっとどこの世界にもあるだろうけれども、敢えて言うならば、そんな感じだ。

この大学の(特に学部の)教育がうまくいっていないという声はあちこちから聞かれる。キーナート氏も書いているように、様々な分野で社会に貢献できる人材を育むことが、本来、大学の使命であるべきである。けれども、そのために、「学業以外のもの(文化)」を提供する以前に、学業そのものさえ満足に提供されていないというのが現状なのかもしれない。例えば、「全学教育のカリキュラムと授業環境に関するアンケート報告書(学内限定)」に寄せられている意見はもっともと感じるものが多い。それらを見ると、アンケートに回答し意見を記入した者、という時点ですでにバイアスがかかっているかもしれないが、全体として修正ベクトルの方向は見えているように思う。キーナート氏のような外部の有識者に大学を見ていただく機会が今後もしあったなら、ぜひ教室にも乱入していただき、教育現場の状況についても率直な意見を伺いたいものだ。

私は、キーナート報告書がハコモノだけを欧米並みにするための口実に使われることのないようにと強く願う。先端的な実験研究などは別としても、教育のかなりの部分については、たとえ施設は貧弱であっても志の高い取り組みは充分可能なはずである。吉田松陰の松下村塾も、岡倉天心の日本美術院も、施設そのものはそれほど立派ではなかったはずだ。


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