手帳

早川美徳 (2002年2月13日)

其の壱

数年間使ってきたPDA(HP200LX)のプラスチックの筐体がヒビだらけになってしまい分解寸前だったので、別のPDAを新調した。PDAをいじっていると、こんな話を想像してしまう・・・ 

 真冬だというのに妙に暖かい日曜の午後、男はぶらりと駅前のカメラ屋に立ち寄った。カメラ屋とはいってもいわゆる家電量販店で、最新の情報機器が並べてある一角の混み様とは対照的に、カメラ売り場のほうは閑散とした様子だ。男の仕事はコンピューター関係のエンジニアなので、仕事の性質上、そこに並んでいる機械がどんな風に働いて、どの程度の性能なのかについては大体分かるけれども、各社の型番や新機能といった最新情報には案外と暗かったりする。

 とりたてて欲しいものもなかったので、客のいないところを見つけてはちょっと触ったりしながらあちこちを巡っているうちに、携帯機器のコーナーにたどり着いた。そこには手帳ほどの大きさの、いわゆるPDA(Personal Digital Assistant)がずらりと並んでいる。PDAと言っても何のことはない、ちょっと機能の増えた電子手帳だ。

 仕事には昔ながらのシステム手帳を愛用していたこの男は、この種の一見便利そうに見える機械にはひどく懐疑的で、所詮は子供の玩具だと侮っていた。会社でも同僚や、ときに上司までもが、使いにくそうにしながら電子手帳を操作しているのを見て、気の毒にさえ思えるくらいだ。通信機能を使って得意げに「名刺交換」をやっている様子などは滑稽にしか見えない。もっとも、最近では仕事の形態も随分と変わって、会社や得意先との連絡や打ち合わせは携帯電話やパソコンでも出来るし、仮に得意先でケーブルが一本足りなくなっても、携帯で連絡すれば、すぐに配達業者が現場まで届けてくれる。会社側も経費節減のために社員になるべく出社しないよう勧めているので、同僚や上司のそうした姿を見ることも殆どなくなった。ここ二週間ほどは、毎日、自宅と現場との往復だ。

 沢山並んだ中に、少し小ぶりで洒落たデザインの電子手帳(PDA)に目がとまった。周りに会社の人間が居ないのを確認してから、手に取って操作してみる。触っているうちにだんだんと面白くなってあちこちの機能を試しているうち、ふと人の気配を感じたので前を見ると、焦点の定まらない目をした背の高い店員が立っていた。
「こちらは、いま大変な人気でして、あと在庫は一つだけになります。色は、お客様が今お使いのものになります、ハイ。」
もともと買う気などなかったけれども
「他の色のは無いの?」
と尋ねると、
「いま大変な品薄でして、他にブルーとワインレッド、それからシルバーがあるんですけど、注文いただいても、いつ入荷するかわからないんです、ハイ。」
自分の「目利き」にすこし満足した男は、値札に目をやり、意外に安いことに気が付いた。普段は衝動買いなどは滅多にしないのだけれど、思わず
「じゃぁ、これでいいです。これって、確か、メモリカードを増設できますよねぇ・・・・」
といった調子で、結局、本体と付属品を数点買うことになってしまった。後から気が付くと、付属品類の総額は本体とほとんど変わらず、予想外の出費となった。

 近くのコーヒースタンドで一服したあと、地下鉄で自宅に向かう。地下鉄には男と同じXXXXカメラの袋を下げた客が何人か乗っていて、皆、どこか遠くを見つめていた。

其の弐

 男はもう三十代半ばだというのに、ワンルームのマンションに一人暮らしだった。住み始めて三年になるその部屋は、本やCDが多少散乱している他は割合と綺麗に整頓されていて、小さなキッチンにも洗い物がたまっているようなことは無かった。帰宅すると、真っ先にコーヒーメーカーをセットし、コートを着たまま床の上で袋の中身を取り出す。

 小さな本体の割に大きな箱の中には、分厚いマニュアル類や付属品が入っていた。箱を全て開け終わる頃にはコーヒーが入ったので、洗いかごの皿の下からコーヒーカップを取り出して、今日三杯目のコーヒーを注ぐ。こうしたマニュアルは素人向けに書かれてあるので、その方面に心得のある男は要点だけにさっと目を通し、後は実際に使いながら試すことにした。

 触ってみるとこれが結構面白く、男は早速、自分の手帳の内容を片っ端から電子手帳に移し換え始めた。膨大に思われた連絡先のリストなども、いざ始めてみると、意外とあっけなく終わってしまった。二・三週間もすると、仕事以外の情報、銀行口座、クレジットカードから、家族の誕生日、たまにでかける飲み屋の場所まで、ほとんどありとあらゆることが手帳に納まってしまった。しかし、メモリーを最大限に増設したこともあって、手帳のメモリはまだほとんど100%近く残っている。

 子供の頃、男がはじめてコンピューターに触れた頃には、メモリーの大きさは非常に限られていて、しかもとても高価だった。64キロバイトのメモリーが大容量と言われていた時代だ。その限られた中で、色々なプログラムを作って動かしていた。そして、いつも
「もっとメモリーがあったらなぁ・・・」
と思っていたものだ。

 実のところ、オーディオマニアが意味もなく大きな出力のアンプを欲しがるように、その当時 大きなメモリーが本当に必要だったのかどうかはいささか怪しいけれども、まあ、ものを欲しがるというのは大体がそんなものだ。その後、コンピューターはどんどんと高速で大容量になりメモリーの量も天文学的な数字にまで増えてきたけれども、男の「メモリー渇望症」はそのままで、新しい機械を買う時には、いつもメモリーを最大限まで増設するようにしていた。

 その電子手帳には、データだけでなく色々なアプリケーションプログラムを登録することもできた。メールの読み書きやインターネットはもちろん、目覚まし、運勢判断、健康診断やダイエットの指南、レストランの選定、遊び場所の案内など、生活に関わるほとんど全てをこの電子手帳が「助けて」くれる。そうこうするうちに、男が愛用してきたバインダー式のシステム手帳は机の引き出しにしまい込まれ、もう二度と書き込まれることはなかった。システム手帳は電子手帳に比べて何倍も重く、大きく、そして中身は空っぽだったのだ。

 そうして数ヶ月が経過した・・・

其の参

 男は電子手帳の目覚まし機能で6時半に起こされた。

 数ヶ月間に手帳に蓄積されたデータは膨大なものになって、ようやくメモリー容量の半分くらいまで達した。仕事や遊びで行動する範囲の地図、よく聴くCD、好きなタレントの写真・・・心のすき間でも埋めるように、思いついたものはすべて手帳に記憶させていったのだ。そうこうするうちに、メーカーからは新しい「大容量メモリー拡張オプション」が発売されたので、昨日それを購入したところが、再び空きメモリーが100%近くに逆戻りしてしまった。

 ベッドの中で男はどんなデータで手帳を満たしたらよいものかをしばらく思案していたが、そうしているうち二度目のアラームが鳴ったので、それを解除して、今日の予定に目を通す。最近手がけているS社のシステムのことで、会社で朝一番にミーティングがある。それで普段より少し早起きしたのだった。会社に出かけるのは久しぶりだ。

 起き上がってコーヒーメーカーのスイッチを入れた後に着替える。トーストをくわえながら手帳で電車の時刻を確認すると、11分後の快速がちょうど良さそうなことがわかる。と言うよりも、手帳がその電車に乗るように指示しているのだ。電車の乗り継ぎ時間はもちろん、駅までの距離、ミーティングの開始時間などが全てインプットされているので、それから逆算して、乗るべき電車を教えてくれる。おまけに、天気予報で雨の確率が高いので、傘を持っていくようにとの表示もあった。

 あいにく、先日折りたたみ傘をどこかに置き忘れたばかりだったので、手帳を上着のポケットに放り込み、ブリーフケースだけ持って自室を出た。電車は相変わらず混んでいたが、ドアの横のすき間に体を入れることができたので、片手で手帳を持って、読みかけの雑誌をぱらぱらめくる(実際には、ボタンを押してページをめくる)。最近では、新聞はもちろん、雑誌や漫画のほとんどは、こうした携帯端末で読めるようになって、以前ほどは車内で新聞を広げる姿を見かけなくなってしまった。座席のサラリーマンのほとんどは、男と同様、それぞれに色々な形の端末で黙って熱心に何かを見ていた。

 会社でのミーティングは予想通り退屈なもので、技術のことがよく分かっていない上司を納得したように気にさせるのに随分と骨が折れた。ほとんどの参加者は電子手帳か携帯型のパソコンを机に置いて、メモを取ったり、暇つぶしをしたりしていた。見ると、同僚のKも、男と同じタイプの電子手帳を使っていて、色も同じブラックだった。

 ミーティングが終わった後、Kのほうから話しかけてきた。
「ひさしぶり。うまくいっているようで良かったじゃない。ところで、君もこれ使ってたんだぁ。 いいよね、これ。」
あまり電子手帳のことで話しはしたくなかったけれども
「うん、まあ、しばらく試してるんだけど・・・。」

 Kの新しもの好きには定評があって、特にS社から何か目新しい製品が出ると、一週間もしないうちに手に入れるらしい。Kもまだ独身なので、自由に使える金をほとんどそういった新製品につぎ込んでいるのだろう。かなり前のことになるけれども、S社の小型ロボットが出たときも、オンラインで即座に購入し、会社の皆を驚かせた。ちょっとした車が買えるほどの値段だったはずだ。

 Kは手帳のことで何か話したそうにしていたけれども
「ああ、これからまたすぐにS社に向かわないといけないんで、また・・・」
と会社を後にした。

其の四

 再び冬が来る頃にS社はベストセラー機の後継になる新しい電子手帳(PDA)を発売した。早速 男がそれを求めたのは言うまでもない。およそ一年の間に、「大容量メモリー」の二割ほどにまで「成長」したデータは、新機種に移し変えると5%ほどになってしまった。新機種はこれまでのさらに四倍の記憶容量があるのだ。でもそれは男にとって新たな目標が設定されたことに他ならず、新しい手帳には今まで以上にせっせとデータが書き込まれていった。

 しかも、今回のバージョンアップではICカードの機能も組み込まれ、登録さえしておけば、駅の改札、高速の料金所から、マンションの鍵まで、すべてこれで済ますことができるようになった。これで鍵の束やカードが沢山入った分厚い財布ともおさらばだ。

 いつも手帳を上着のポケットに入れて肌身離さずいた男は、その頃から、これまでに無かった感覚に襲われるようになる。いつも手帳に触れていないと不安で仕方ないのだ。そして、ほんのささいなことでも、手帳に照会しないことには、なかなか思い出せない。

 このあいだも、実家の母から留守電が入っていたので、電話しようして、どうしても番号が思い出せなくなった。そこで、いつものように電子手帳で【実家 電話】と検索。もちろんすぐに番号が表示されたので、電話してみると、別段変わった用事があるでもなく、最近近所で飼いはじめた犬が無駄吠えしてうるさいだの、祖母が少し呆けてきたらしいだの、こちらは相槌を打つだけで、殆ど向こうがしゃべっていた。

 話しを聞きながら、ふと母の名前を思い出そうとしたが、これがすぐに出てこない。受話器を肩で支えておいて、電子手帳で【母 姓名】を検索してみた。液晶に表示されたその名前を見ながら、小さく
「母さん?」
と呟いた。

其の五

 ある日、電子手帳に新着メールの表示が出ていたので、開いてみると、同僚のKからだった。同期の会社の仲間が結婚するというので、その二次会の打ち合わせだった。参加人数の確認や会場設定などは全て電子手帳にお任せだ。住所録から想定される参加者を拾い出し、問い合わせのメールを出す。会場の予約もオンラインで出来てしまう。

 これらを一件ずつ行なうのは手間なので、今回はインターネットで見つけた「名幹事」というソフトを使ってみた。これなら、人選もほとんど自動で行なえるし、不意のキャンセルなどがあっても、自動的に会場側のコンピューターと予約の再調整をしてくれる。

 二次会の当日は、さすがに「名幹事」がアレンジしただけあって、美味い料理と酒、堅苦しくなないけれども落ち着いた雰囲気で、概ね好評だった。とは言っても、仕事のメールを除くと、殆ど普段から顔を合わせることがないので、盛り上がりはイマイチで、単なる合同飲食会のようだった。

 レストランの前で皆と別れた後、男とKは、幹事だけの打ち上げということで、二人で別の飲み屋に出かけた。実は、こちらも「名幹事」が手配したものだ。

 そこはこじんまりとしたバーで、カウンターの他に小さなテーブルが三つくらいあった。大正時代のカフェのような調度がいかにも古くさかったけれども、白髪の初老のバーテンダーとはよくマッチしていた。二人の他に、一番奥のテーブルで、中年の男性が三人、小声で何かを話し合っていた。

 男は酒はあまり強いほうではなかったけれども、ひと仕事終えたという安心感も手伝ってか、いつもより早いペースで酒を注文した。もともと男は人一倍気を遣うほうで、宴会などの調整はできれば遠慮したいと思っていたが、今回はKと二人でということで、渋々引き受けたのだった。Kもまた、あまり飲めるクチではなかったけれども、あたらしモノ好きらしく、変わった名前のカクテルをリストで見つけては次々と試していた。

 かなり酔いが廻った頃、Kが突然手帳の話しをし始めた。
「ほら、君が使ってるSの電子手帳、あれ、新型が出たよね。もう買った?」
「ああ」
「やっぱりね。あれ、よく出来てるよね。僕も、仕事の途中だったけど、速攻でXXXXに行って買ったんだ。ほら、僕って昔からXXXXOSのマシン使って来たからさ。もう、あれ無しじゃ 何にも出来ないって感じだよ。」
確かにKは、男と同様、その電子手帳にかなり依存している様で、そう話しながら電子手帳を内ポケットから取り出して、メモリーのインジケーターを男に見せた。
「ほら、これって大容量がウリなんだけどさぁ、もう10%くらいは使ってしまったよ。」
自分よりも上手がいたことを男は少し不快に感じたけれども、量より質、などと意味不明な文句を心のなかで呟いて、黙ってウイスキーを飲み干した。Kは
「そうだ、今度引っ越すから、引越し先のデータを送っとくよ。アドレス帳を転送モードにしといてくれる?」
この電子手帳は、同じ機種同士だと、無線を使って簡単にデータの交換ができる仕組みになっているのだ。
男も手帳を取り出して、転送モードにした。
「なーんだ、君も同じ色のかぁ。何だか気が合うなぁ。」
とK。いつもより反応が鈍いような気はしたけれど、たいした間もなく転送終了のサインが表示された。

 それからしばらく、二人はお互いの手帳を手に取りながら、手帳の設定のこととか、最近見つけたソフトなど、所有者以外にはどうでもいいような話しを肴にしてスコッチをロックでちびちびやった。少し飲みすぎたようで、眠気も手伝って意識が朦朧としていたが、気が付くと、手帳が終電のアラームを鳴らし始めたので、急いでカウンターの上の手帳を胸にしまい、店を出た。

 Kとはそこで別れた。

其の六

 かなり酔ってはいたけれど、手帳のお陰でなんとかマンションにたどりつくことができたようだ。結局、最寄駅までの電車には間に合わず、手帳の指示に従って途中の最終駅からタクシーを拾ってマンションの玄関まで送ってもらった。酔っていたせいか、道順がうまく説明できなかったが、手帳でルートを検索して見せたら、タクシーの運転手はすぐに了解してくれた。あらかじめ手帳が見積もっていたタクシー代と実際に支払った額とは100円も違わなかったように思う。

 手帳の電子キー機能を使ってマンションの玄関のロックを開け、エレベーターに乗った後ではたと困った。
「部屋は何階だっけ?」
情けないことに、自分の部屋番号を手帳で検索することになる。と言っても、【自宅 住所】で検索すれば一発だ。803号室だとすぐ分かって、手帳でドアロックを解除し、そのままベッドで眠りこんでしまった。

其の七

 いつものように電子手帳のアラームで目が覚める。夕べ飲みすぎてしまったせいで、頭の芯がずんと重い。太ももに力を入れて体を起こし、手帳に手を伸ばして今日のスケジュールを確認する。その日は休日で、全く記憶がなかったけれども、プライベートな用事で人と合う約束をしていたみたいだ。「アポイント」にはR子と表示されている。待ち合わせ場所は郊外の動物園だった。R子が誰で何の約束だったのか全く思い出せないけれども、それでも電子手帳は約束に間に合うために乗るべき電車の候補をもう表示している。

 ベッドから起き上がると、部屋の様子がすこしおかしいようにも思ったが、そんなことよりも喉が渇いたので、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して飲み干す。胃がむかついて、とても食事など取る気がおこらない。電車までもうあまり時間がなかったので、目についたその辺の服を引っ張り出し、綿シャツの胸ポケットに手帳を押し込んで、マンションを出た。

 休日の午前というので電車は比較的空いていた。どうしてもR子のことが思い出せないので、手帳でR子の名前を検索してみる。すると、思いのほか沢山のデータが引っかかった。そしてその殆どは彼女との電子メイルの記録だった。釈然としないままざっと目を通すと、どうやらR子とはメールで知り合った関係らしいことが分かる。そして今日、その場所で、初めて会うらしいのだ。それがわかって、男は少し安心したけれども、同時に少し緊張しはじめた。

 途中の駅でモノレールに乗り換える。待ち合わせ時間が長かったので、駅で缶コーヒーを買う。缶を開ける前に、脇に印刷されたバーコードを手帳にかざし、手帳の中の「小遣い帳」を更新しておく。

 モノレールの自動改札を出て長いエスカレーターを降りと、すぐに動物園の入り口が見えた。手帳を見ると、待ち合わせの場所は動物園のゲート前とある。電子手帳は「待ち合わせモード」にしてあるので、相手が同じ種類の手帳を持っていれば、それに反応して、所在を教えてくれるはずだ。手帳が示した方向には、Tシャツにジーンズ姿の おそらく30歳くらいの女性が立っていた。そして、彼女も手帳越しにこちらを見ていた。

「えっと、どうも。はじめまして。で、良かったんでしたっけ?」
と男のほうから切り出すと、
「はじめまして。」
と、こちらの目だけをじっと見てR子が応えた。

 挨拶もそこそこに、二人とも手帳を使ってゲートを通過した。男は、こんな歳になって動物園でデートをしている自分が不思議に思えたが、先へ先へとどんどん坂を登っていく彼女について行くだけで今は精一杯だった。

 その後、二人は沢山のチンパンジーが飼育されているサル山をしばらく観た後、サファリパークのようなバスツアーに乗ったり、人気のあまりない昆虫館の昆虫を一つ一つ見て歩いたりして、結局午後までそこで時間を過ごした。驚いたことに、彼女はそこで飼われているチンパンジーの名前や血縁関係を全て覚えていて、「あれはXXXさん」、「そしてあれは、子供の○○さん」と、きちんと「さん」付けで教えてくれた。何度もここに通っているうちに、自然に覚えてしまったらしい。男にはチンパンジーの違いが全く分からなかったし、名前を覚えることの重要性もよく分からなかったけれども、そうやって熱心に説明してくれる彼女に好意を抱きはじめたことは確かなようだった。

其の八

 モノレール沿線の街でR子と降りて、手帳が勧めるレストランに入った。昨日の今日なので、グラスワインを一杯だけ注文して、そこですこし早めの夕食にした。彼女もあまり酒は強くないらしい。

 食事を終えて、同じモノレールの改札で彼女と別れ、男は手帳が指示した帰りの電車に乗った。車窓から見える夜の街は、どこかで観た映画の場面のように思えた。

 自室に帰ると、留守電に一件メッセージがあった。再生してみると、実家の母からだった。まだ遅い時間ではなかったので電話してみることにしたけれども、どうしても実家の番号が思い出せない。いつものように、電子手帳で【実家 電話】と検索する。

 二・三回も呼び出し音が鳴らないうちに母が出た。別にたいした用事ではなくて、久しぶりに声を聞いてみたかっただけのようだ。いつもと声の様子が違うみたいだと言われたが、夕べ飲み過ぎたことを言うと、向こうはすぐに納得した。そして、最近 近所でマンションの建設があって工事の音がうるさいだの、叔父がリストラされて大変だの、こちらは相槌を打つだけで、殆ど向こうがしゃべっていた。

 話しを聞きながら、電話の向こう側の母の面影を思い出そうとしたが、どうしても出てこない。受話器を肩にはさみ、電子手帳を取り出して【母 画像】を検索する。そして、液晶上に現われた少し不鮮明なその画像を見ながら、小さく
「母さん?」
と呟いてみた。

(おわり)