大学ぐらしの地震対策

早川美徳 (東北大学教育情報基盤センター)

はじめに

あんなに強くて長い揺れだったにもかかわらず、このキャンパスも仙台の市街も、一見しただけでは被害の程度が分からないくらい、(おそらくは設計者の想定のとおり)よく地震に耐えた。どの建物でも中身はぐちゃぐちゃになったし、細かく見れば、至る所にひび割れを見つけることができるし、中心部の誰でも知っている高層ビルの先っぽのアンテナは折れてしまったようだし、余震による倒壊の危険性から、未だに立ち入り禁止が解かれていない建物もある。高価な研究設備の被害の話も耳に入る。けれども、テレビで毎日のように映し出される、大津波が襲来した沿岸部の悲惨な状況からみれば、内陸部の我々は、地震後もまだ日常の延長線上にあったのだと言えるかもしれない。

とはいえ、体験してみてようやく身にしみたことも多く、(少人数で、大がかりな装置なども持たず、あまり典型的ではないかもしれない)大学の研究室での地震への備えについて、多少なりとも参考になればと思い、ここに書き留めておくことにした。

そのとき

僕の研究室は、その昔は「教養部」と呼ばれていた一角の、好き嫌いは別として、阪神淡路大震災よりは後に建てられた、割とモダンなデザインのビルの四階にある。「マルチメディア教育研究棟」が、そのビルので正式名称で、教育用のパソコンを含め、おそらく1000台くらいのコンピュータがひとつのビルに収容された、(菅首相じゃないけれど)「ある意味では」、大学内のハイテク施設のひとつと呼べるかもしれない。建物にはいろんな凹凸があるものの、鉄筋コンクリートの柱とスラブで構成された一般的な構造をしており、部屋の壁や天井も、金属のフレームに石膏ボードを貼りつけただけの、こちらもよくあるタイプの内装だ。教室やホールのスペースを広く取るためか、強度のある壁は見当たらず、柱がすべてを支えており、外壁部分にはガラスも多用されている。

地震の発生時、自分のオフィスで(ちょっと前に友人らと益子に旅行したときに、自分でロクロを引いて作った湯のみを手に)コーヒーをすすりながら、パソコンに向かってTwitterの文章データの解析プログラムを書いていた。

館内放送から緊急地震速報は流れなかったけれども、揺れ始めから、これまで経験した地震とは何か違うような気がして、本能的に廊下に出た。あちこちから、物が割れるような音がして、埃が立ちこめてモヤがかかったようになってくる。幻想的と言ってもよいくらいの光景。揺れの中盤くらいで、照明がまばたきをするように感じられた後、全館が停電した。となりの部屋に院生がひとりいたのを思い出し、ドアを開けて覗いたらところ、机の下にうずくまりながらも、何とか揺れをこらえていた。

本震が収まった後、大きく散乱した部屋の中を見て、多少気持ちが動揺するも、ひとまずここから避難するのが先決と思い、書類に埋もれた靴を掘り出し、上着を羽織って、(そのまま帰宅することも一応は想定して)鞄(デイパック)を手に取り、その学生と階段をおりた。

建物の外に出て、とりあえずは、スタッフ全員の無事を確認したものの、次にとるべき行動が頭に浮かばない。また、周りがどれほどの事態となっているのかも、全く把握できない。建物の前では、いつもそこで練習しているダンスのチームの若者達が、いつもよりも多い観衆を前にして、ちょっと恥ずかしそうに練習を始めていた。

ひとまず、PHSのメールで、無事であることだけは妻に送信しておいた。その後、じきに通信が途絶したことを思うと、これは割合と適切な判断だったように思う。

通信が輻輳する前にメールで安否を連絡。「無事です・・」のような定型文をあらかじめ携帯に登録しておくと早いかも。

上着も着ないで、サンダル履きのまま慌てて外に飛び出したたスタッフも多く、余震が続く中、帽子やヘルメットを着用し、数人ペアとなって、建物の中に荷物を取りに入った。あの状況で、あれこれ荷物をまとめる余裕は誰にも持てないと思うが、最低限、屋外退避後の寒さ対策は必要かな、と感じた。

寒い時期や雨天の場合、緊急避難する際に1〜2時間は屋外で過ごしても大丈夫な服装で。室内がぐちゃぐちゃ状態になっても、上着などはすぐ手に取れるよう、その置き場所にも配慮が必要。

電気が復旧した際に火災にならないよう、可能な限り各部屋のコンセントを抜いて、防犯のため、部屋と入り口は施錠した。津波が襲来して無人に近い状況になった地域では盗難が頻発した(している)そうだが、大学の周りは、それほど物騒な空気は感じられなかった。外国のメディアが日本人が秩序だって行動する様子を高く評価している、と、日本のメディアは伝えていたけれど、我々は集団の中で人目に晒されている状況では「行儀よく」行動する傾向が強いだけで、皆のモラルが高いのかどうかについてはよく判らない。

ともあれ、戸締まりの後、スタッフは一旦解散となり、その場に居た院生の自宅は、市内の徒歩圏内だったので、そのまま帰宅するように指示した。

車で何とか帰れることを期待して出発してみたものの、市内はひどい渋滞で、ガソリンも残り少なかったので、すぐまた大学に引き返すことにした。幸い、研究室には寝袋とキャンプ用のマット、懐中電灯、水と菓子類があったので、それらを持ち出して、大学内のどこか安全な場所一晩過ごすことにした。ついでに、野外観測用に購入してあったポータブル電源(150W)も持ち出した。最初は、同じ建物の1階のパソコンの並んだ実習室の一角に「キャンプ」をはるつもりだったが、体育館が避難所になっているらしいと聞き、そちらに移動。広いフロアには、何箇所か島のように石油ストーブが置かれ、その周を取り囲むように皆が座って、暖をとっていた。入り口付近には、食料や飲み物が入ったダンボールが並んでいた。生協の売店から提供してもらったものらしい。

ポータブル電源は、懐中電灯など充電などに使ってもらうようにと、その場を仕切っている事務職員に預け、体育館の隅っこのほうに自前の小さなマットを敷いて、寝袋にくるまって夜を越すことにした。そのころには、携帯もメールも全く使えなくなっていた。妻とも連絡が取れない。

とっぷりと日がくれてから、構内の公衆電話から、岐阜県の実家に電話をかけてみたところ、弟が出てくれた。あちらからかけても、妻の携帯には繋がらないとのこと。凍てつくような寒さの中、空には満天の星。

翌朝6時ころに体育館を引き上げ、駐車場に向かう。車中泊をしたらしい学生の車があったので、体育館が避難所になっていることを伝える。自宅までは、最短経路でも17kmほどはあるので、途中の状況に不安はあったけれども、ひとまず車で行けるところまで行くことにした。早朝ということもあって、道路には全く人影も車も無く、街は静まり返っていた。建物のひとつひとつに、人が暮らしている気配が全く感じられない。海の方向が見渡せる丘に差し掛かったとき、仙台港のあたりが炎上して、黒い煙が立ち上っている向こう側から、赤銅色の陽が昇ってくるのが見えた。僕は、この世界にたったひとりだけ取り残された人類のような気さえした。

研究室にも、水、食料、携帯ラジオ、懐中電灯、寝袋などの防寒具やマットなどの、いわゆる防災グッズを用意しておくこと。

安否確認と自宅待機

現在のところ2名の大学院生しか指導していないので、安否確認は比較的楽といえば楽だった。一人は、当日その場に居たので、無事を確認するまでもなく、帰宅するよう指示した。これほどまでに大規模な災害となるとは想像できなかったので、ひとまず、地震直後(金曜の午後)の時点で、「来週の月曜に大学に来てみるように」と伝えた。月曜に大学に出て来てみたものの、建物への立ち入りも制限されており、片付けさえできない状況だった。大変な状況の中、自宅から歩いて来てくれたその学生には「もう一週間くらいは自宅で待機」と告げるほかなかった。幸い、自宅も家族も無事とのことだった。

もう一方の院生は大学の寮に住んでおり、幸い、携帯の番号を知っていたが、電話が繋がって無事を確認できたのは、月曜日になってからだった。幸い彼も無事で、何とか物資も調達できている様子だったので、ひとまず、そちらで待機するように伝えた。状況の大変さが徐々に明らかになってきたので、数日経ってから、その学生には、郡山の実家に一旦避難するよう電話で指示した。

災害時の連絡用に、できれば、学生の携帯番号(とメアド)は把握しておきたい。あるいは、教員の緊急連絡先を知らせ、災害時には必ず安否を連絡するように徹底する。

自宅の電気とネットが復旧したのが3月14日。翌15日に学生が所属する物理学専攻長から学生の安否確認についての連絡がメールで届いたので、講座の長老にもCc:し、2名の無事をメールで通知した。

その後、3月20日に、大学の安否確認システムから「不審な」メールが届いた。内容を見ると、3月20日に発生した余震に関係して、「仙台市内で、震度5強以上の地震が発生しました。東北大学の学生・職員の安否確認を行いますので、以下の選択肢から安否状況を報告してください。」と書いてある。そして、URLをクリックするように誘導されている。一見すると、フィッシング詐欺のようにも思えたが、誘導先のアドレスは間違いなく大学のものだったので、とりあえず応答だけは出しておいた。

そんな中、知り合いの研究者から、一時的な学生の受け入れやそちらのラボの使用について、有り難い申し出を何件かいただいた。このことについても学生には連絡して、意向を尋ねてみたが、彼らはあまり積極的ではなかった。一時的にではあれ、環境を変えるのは彼らにとってはそれなりに大変だろうし、当地での住居の確保の問題もあるので、無理からぬところがある。

ともあれ、研究へのモチベーションを下げないで、こんな状況の中でも出来ることはやり続けられれば、それが一番だが、災害の渦中にあっては、なかなかそれは難しい。まだ片付けも始まっていない研究室に、学生のノートPC等が置き去りにされていたので、自宅でも書きかけの論文の作業などができるようにと、一旦実家からバスを乗り継いで必要なものを取りに来てもらった。

学生を自宅待機させる前に、研究の継続に最低限必要な機材や資料を持たせること。

復旧に着手

状況が少し落ち着いてから調べてみると、建物内の被害は、階数によって大きく異なることが分かった。1階から3階は、パソコンが沢山並んだ教室がほとんどを占めており、多くが転落などで壊れてしまったのではないかと心配したが、実際に故障したのは、3階部分の教室のiMac1台のみだった。iMacは見るからに重心が高く座りが不安定なように思えるが、案外、そうでもないのかもしれない。2階に設置してあったサーバー類も、実質的な被害を被らずに済んだ。ただし、揺れは相当大きかったことは間違いなく、パソコンを設置したテーブルは配置が大きく乱れていたし、教室の管理を行っている三階のオフィス内も、机の書類などはほとんど床に落下して、足の踏み場もない状況だった。

4階の研究室は、書棚の本が散乱したり、デスクトップパソコンが台の上で転んだり、机などが大きく移動したり、と、一見するとかなりの被害に見えたが、後からよく調べてみると、それほど大きなダメージでもなかった。

BookStopper

◆ 壁は一面、スチール製の本棚になっているが、1mくらいより上の段には全て落下防止用の金属棒(可動式)が渡してあったので、本が上から降って来ることはなかった。背の高い本棚(H=250cm)そのものも、最上部を壁にビスで固定してあったので、転倒を免れた。金属枠と石膏ボードの弱い壁であっても、全面を本棚にして一体化させると、それ全体として(多少は)強い壁のように働くのかもしれない。

以前に所属していた組織(建物8階)では、本棚等の上部にはすべて「ツッパリ棒」を入れてあったのだが、この強い揺れに対しては、転倒を防ぐことはできなかったようだ。

本棚は連結した上で壁や床に固定。天井との突っ張り棒は、大きな揺れでは「もたない」。落下防止バーは非常に有効。

「文献が生命線」の文科系のある建物では、学生が果敢にも研究室内に留まって本の落下を食い止めようとしたものの、強い揺れの中、降り注ぐ本の前に為す術もなく、揺れが収まった後で教員が部屋を確認したら、本に半分埋もれたまま、呆然と立ち尽くしていたそうだ。その後の社会的な混乱を思えば、軽い怪我であっても大きなハンディとなってしまうわけで、とにもかくにも「安全第一」の行動が必要だろう。

地震対策は、地震の「前」に行う。地震が起きてしまったら、その場で被害を食い止めようとせず、潔く諦めて、身の安全を確保。

◆ その他の棚やキャビネットは、概ね1m少々の高さのものしか置かないようにしていた。幸い、場所は大きくずれたものの、転倒はなかった。その中でも一番背の高かったのは、「エレクター」と呼ばれているスチールラックで、最上部の棚板(棚網?)の高さが約1.4mほどあったが、それも数歩だけ歩いたくらいの感じで、転倒は免れた。土台がキャスターではなくて、「フロアプロテクト・アジャスター」と呼ばれる、割合しっかりとしたパーツだったのも、安定性を保つには効果があったのかもしれない。

背の高い棚はなるべく使わない。ましてや、棚の二段重ねは絶対やめるべき。

ただし、そのスチールラックの上段に置いてあったやや重量のあるDC電源は、となりの机の上に落下し、パネルの一部が割れてしまった。スチールラックの凹凸に引っかかって、転がるように落ちたのだと思う。動作に特に問題はなかったので、地震の後、マジックテープ付きの丈夫なベルトを使ってラックに固定しておいた。

棚の上で転がったりずり落ちたりしそうな(特に重量のある)ものは固定しておくこと。

◆ カメラやレンズ、それなりに値段の張る機器類などは、蓋のついたプラスチック製のコンテナに入れておいたので、全く心配なかった。その他の小物類の多くも、ダイソーで買ったプラスチックの蓋なしコンテナに入れて積み上げてあったのだが、それらも大丈夫だった。

プラスチックコンテナは、地震対策としても、利用価値が大。

BoundMacPro1
MacMini

◆ 普段使いのデスクトップパソコン(1st generation Mac Pro)は、DIYで作った40cmほどの高さの専用台に置いてあったのだが、その上で見事に転んでしまっていた。幸い中身は無事で、ここ数年分の計測データが消えてしまうという、最悪の事態は避けられたが、これは単なる幸運だったと考えるべきだろう。
近所のオフィスでは液晶モニタが落下で壊れたという話しも、何件か耳にした。

その後の余震で転倒することのないように、ホームセンターで安いクランプを買ってきて、台座にパソコン(Mac Pro)を固定した。また、サーバー用に使っているMac miniもRAIDドライブと一緒に、銅線と木ねじで、台座に固定した。さらに、壁との間に梱包用のクッション材を入れて、壁との「激突」を避けるようにした。

机の上のパソコン本体や液晶ディスプレイの転倒は十分に想定範囲内。

バックアップ用の外付けRAID5は、再起動後に4台のドライブのうち1つからエラーが出たが、転倒によって、接触不良になっていた模様で、エラーが出ているドライブを挿しなおしたら、自動的にRAIDの再構築が始まり、データは無事復元されていた。

地震後、パソコンなどを再起動する場合は、スロット等の接触を確認してから。

BoundMacPro2

◆ 計算用に使っているMacPro(2台)は、合板にウレタンキャスターを取り付けた「専用台」の上で、文字通り、床に転がしておいたのだが、これらも転倒しなかった。キャスターが免震作用を発揮したのかもしれない。余震対策として、2台を紐で結わえて、さらに転びにくくしておいた。

◆ 天井の埋込式エアコンや照明類などは、幸い、全て無事だった。部屋の隅の石膏ボードは、何箇所か割れてしまっていた。また、柱と壁に数ミリ程度の隙間ができてしまい、ただでさえ防音性に乏しい壁なのに、となりの部屋の明かりも漏れてくるようになってしまった。修理される可能性は低いと感じたので、ホームセンターでシリコンシーリング材(1本300円ほど)を買ってきて、自前で、隙間を埋める工事を行った。2日間くらいは臭いが多少気になった。

◆ 通常の部屋であれば、窓にあたる部分に、この部屋では、ガラス製の半透明なブロックが積まれている(そう言えば、近所の病院の待合室も、同じようなしつらえだった)。地震でその目地の部分のモルタルが砕けて散乱し、文字通り「風穴」が空いてしまった。万一余震で崩落したら、部屋の外を歩く学生に危険だろうなと思っていたら、割合と早い時期に、業者が手配され、あっという間に直ってしまった。授業再開に向けて、危険箇所の修繕がこうして迅速に行われる様子は、教員として、非常に頼もしく感じられた。

同じ4階のフロアでも、教室になっている部分は、机がほとんど全て転倒してしまっており、室内は稼働式の仕切り壁が壊れたり、あちこちが傷んでいる様子だった。

ひとつ上の階(5階)に上がると、まるで震度が一つ増えたくらいに、被害が目に見えて大きくなり、最上階(6階)ではさらに被害の程度が大きく、石膏ボードの壁や天井の一部が脱落し、埋込式の照明器具などが、宙吊り状態になっていた。階段部分などの床面には、大きなひび割れが走っている。建物全体の変電設備もこの6階にあったため、大きな損傷を受けてしまい、再び通電するまでには震災から丸1ヶ月を要することになった。工事が終わり、業者がブレーカーを入れて部屋に再び明かりが灯ったときは、自然に拍手が湧いた。

本震の当時、6階の会議室では何かの研究会が開かれていたのだが、地震後もしばらくは、飲み物類や参加者の荷物がそのまま残置されていた。ここに居た人たちは、相当の恐怖を感じて逃げ出したに違いない。5階が居室の同僚の准教授は、「人生ではじめて『死ぬかな』と思った」と語っていた。少なくともこの建物では、5階より上は、不連続的に被害が大きかったようだ。

重要な機器や地震に弱い設備は、できるだけ低層階に集めるべし。

通勤困難

停電の間は、すでにインフラ関係が復旧していた講義棟の教室をひとつ借りて、センターの仮オフィスを設営した。隣り合う建物にも関わらず、電気があると無いとでは、こんなにも違うものか。

学生が使う机を並べて、一つの教室の中にオフィススペース、ミーティングスペース、エメニティースペース、レセプション、等々のコーナーを仮想的に設けた。そこを拠点にして、暗い研究室に戻って、部屋の片付けをしたり、仮設オフィスで科研費や研究プロジェクトの報告書を書いたり、論文の査読をしたり、と、それなりに大学教員らしい仕事も続けていた。もちろん研究内容にも依るだろうが、(1ヶ月程度の避難期間ならば)仕事をする場所はあまり重要なファクターではなかった。

そんな中、割合と消耗したのは、買い物の長い順番待ちや自宅の生活用水の水汲みもさることながら、バスでの長時間通勤だった。ガソリンが入手できない状況が長く続いたので、公共交通機関が頼みの綱になるわけだが、平常ダイヤに戻るまでには、休日ダイヤの間引き運行や土曜ダイヤといったパターンで、本数が少なく、さらに、地下鉄も一部で不通の状態が長かったため、時間もかかったし、ひどい混雑が続いた。10時半の会議に間に合う自信がなかったので、前の晩に、市内でようやく再開したカプセルホテルに泊まったこともあった。

いろんな経緯で、交通網があまり整備されていない、職場から随分と離れた場所に住居を構えてしまったため(最短経路でも約17km、通過する信号機の数は40個近い)、どうしても車に依存してしまう。当然予想される状況とはいえ、ガソリンの供給不足によってこれほど長く車が使えなくなるとは思わなかった。

震災からしばらく経つと、ホームセンターには、ガソリンの携行缶が沢山入荷するようになったが、大きめのものでも20リッターほどしかないし、あまり長期間備蓄するのは安全面などでも却って心配なので、とにかく、流通が正常化するまで何とかしのぐほかない。代替手段として、電動アシスト付き自転車のカタログなども調べてみたが、まだまだ高い価格と職場までを往復するには短すぎる航続距離の2点で、購入に踏み切れないでいる。

大学内「ネット難民」

大学のキャンパスのある仙台市の中心部は、本震の2日後に、電気が復旧したらしい。僕の住んでいる郊外の団地で3日後だった。それまで耳にしていた防災の心得によれば、ライフラインのうちで電気は一番復旧が早く、概ね1日程度以内には回復するという。それに比べれば長いものの、この震災でも、電気は早くに復旧した。自宅では、電話局のバックアップ電源が切れて通じなくなった固定電話も、電気が戻ると同時に使えるようになっていたし、ADSL回線も何もなかったようにリンクが復活していた。大学の光ファイバーやネットワーク機器も、予想外に被害は少なかった模様で、基幹部分に限れば、復電からあまり時間をおかず、再稼働を果たした。

その一方で、建物の損壊などで、研究室に戻ることのできない職員や大学院生が未だにある。我々も、建物が復電するまでは、講義棟の教室を借りて住んでいた。そんな状況で色々な不便が発生するのは仕方ないことではあるけれども、いまどきネットに繋がらないと仕事にならないケースも多い。

講義棟に居候していると、他の組織の先生方や学生達が、「ネットの繋ぎ方」についての問い合わせのために頻繁に我々の仮オフィスを訪れ、それに対応するスタッフも大変そうだった。大学の構成員は、国籍も、身分も、給料の支給元も、いろんなパターンがあるので、学内のLANに繋ぐために経なければならないステップも色々だったりする。

研究室の防災訓練の一環として、メンバーがそれぞれ、自分のノートパソコンを、研究室外の無線LANなどに一度は繋いで、経験値を上げておくのは、案外大切かもしれない。あるいは、今ではいろんなモバイル通信業者が存在するので、大学の情報インフラに頼らず、そちらを使って急場を凌ぐほうが簡単かもしれない。

情報ネットワークの基幹系の地震への耐性はかなり高いようだ。ただし、利用者サイドとしては、研究室以外からでもネットへの接続性を確保しておくこと。

(書きかけ)